仏教Q&A 13回目


【人生は試練の場か、大変な宝を手に入れるステージか?】

 

こんにちは。
「OBA」のまさみです。

 

今日は「大船に乗る」とはどういうことか、お話しします。

「大船」に乗った心の境地を、鎌倉時代の古典『歎異抄』には、

「摂取不捨の利益(せっしゅふしゃのりやく)」

と説かれています。

「利益」とは今日のように「りえき」とは呼ばず、「りやく」と読みます。

今日の意味で言えば「幸福」のことです。

「摂取不捨の利益」とは、がちっと一念で摂め取って、永遠に捨てられない幸福のことです。

何をばかな、捨てられない幸せなんてあるものか、と、とても信じられなくても無理もありません。

常に私たちは、幸せに捨てられないようにと戦々恐々として生きているのですから。

▼子供のころは

親から見捨てられないように

▼学校に行くようになれば

クラスの友人から見捨てられないように

▼大学では留年を恐れているのが

大学から捨てられないようにしている姿ですし、

▼社会に出れば

上司から捨てられないように仕事に取り組みます。

▼結婚すれば

今度は妻から捨てられないように気遣い、

▼中間管理職になれば、

今度は部下から捨てられないようにやはり気苦労している。

▼株や不動産があれば、

今度はそれらの財産から捨てられないようにやきもきし、

▼年を取れば

今度は健康から捨てられるのでは、と心配し

▼美貌や才能から

捨てられていくのに焦燥感を覚え、

▼子供から見捨てられたら嫌だから、

と子供の顔色をうかがう。

たとえ今、幸せを手中にしていてもいつか捨てられることを知っているから、心からの幸せではないつかんだと信じた幸せも一朝の夢、握ったとつかんだ楽しみも一夕の幻、幾度となく、捨てられる悲しみや苦しみを経験しているから、

「今度もまた捨てられるのでは」

と不安になるのです。

そんないつ捨てられるかわからぬ、今日あって明日無きような幸せは人生の目的とは言われません。

何があってももう捨てられることのない幸せ、「摂取不捨の利益」を獲た時にこそ、

「人間に生まれてよかった」

「生きてきてよかった」

と人生の目的達成の満足に生きることができるのだ、と『歎異抄』に説かれています。

この変わらぬ安心を手に入れるために人はこの世に生まれてきたのです。

 

●人生は、試練や修行の場ではない

「摂取不捨の幸福」は、この世、今ここで得られる幸せです。

これは驚くべきことではありませんか。

今、この場で、そのままの姿で幸せになれるんだよ、と断言されているのです。

よくスピリチュアルでこの世は試練、この世は修行、ここで魂を磨くと死んで高いステージの世界に行ける、と説いている人を見かけますが、それは少なくとも仏教ではありません。

仏教はそういうことを言いません。

生きている今、ここで本当の幸せになれる教えだからです。

人生は試練の場ではなく、素晴らしい宝を手にできる、かけがえのない場所なのです。

「摂取不捨の幸福」(絶対の幸福)はじわじわと、いつとはなしに苦しみや悩みが減っていって気づいてみたら幸せになっている、というような幸せではありません。

その時その場で時間をかけずに心が大変わりする、そういう幸せです。

どんな人が周りにいても刑務所の中であろうが、末期ガン病棟の中であろうが本当の幸せに“今”なれるのが仏教なのです。

だから人生という場所はとてつもない宝物をつかむことができる、かけがえのないステージなのです。

せっかくここに生まれながらこの世はどうにもならない、どうせ自分なんて意味がないとむなしく人生を終えていくとしたら

「せっかく宝の山に入ったというのに、

手を空にして何も持っていかずに

出ていくような、もったいない、

残念なことなんですよ」

と説かれるのです。

 

●この世で絶対に崩れない幸せになれる

ロサンゼルスに住んでいた時、自宅の近くのエルカミノカレッジに通う日本人女性で仏教に関心ある方があり、話をしました。

大学生とはいっても、向こうでは社会人として働きながらカレッジに通う人も多く、その方も当時、4歳のハーフの女の子と暮らす、シングルマザーの社会人でした。

彼女は日本で高校生まで過ごしたのですが家庭内で辛いことがあってうらみと憎しみの生活が嫌になり、すべてを捨てて一から人生をやり直すつもりでアメリカに留学した人でした。

やがてロサンゼルスで知り合った白人男性と結婚し、その女の子が生まれたのですが、ご主人とのカルチャーの違いとDVに苦しみ、やがて離婚されました。

日本でも難度海の荒波に苦しまれ、アメリカでも波にもまれ、なんで自分ばかりこんな目に、と思っておられたそうですが、その時にキリスト教の教会で話を聞くようになり、

“あなたの受けてきた苦しみは神の与えた試練なんだ、その試練に耐えて神への信仰を深めていけば、天国に行ける”

と聞かされて、救われた気持ちになられたそうです。

今までは親を恨み、夫を恨んでいた人生が、じつは神が与えた試練だったんだと心が変わったときに、うらみの心がすっと消え、とても心が軽くなったといわれていました。

それ以来キリスト教を信仰するようになられたのですが、それから間もなく難病にかかられたそうです。

入院先で死も意識するほどの病気だったそうで、その時に病室の中で「自分は本当に天国に行けるんだろうか」と不安になられたのです。

「もしこれで天国に行けないとしたら、また自分は騙されたことになる。日本で裏切られ、アメリカでは夫に裏切られ、また裏切られることになるとしたら、自分の人生は何だったのか」

と苦しくなってこられたそうです。

あげくは

「こんな思いをするくらいならキリスト教なんか信じなければよかった」

とまで思われたとか。

やがて病気が治られたのですが、またキリスト教を信仰しようという気持ちになれず、学校に通い始めた時に私と出会ったのです。

私がこのメール講座でお話ししているように、難度海を渡す大きな船がありますよ、そして“乗れた”という時があるんですよ、と話をしたところ、

「乗れるのは死んでから、ですよね?」

と聞いてこられました。

「いえ、生きている今、乗れた、という時があるんですよ」

と答えると

「本当ですか!?死んだら、ではないんですか」

と重ねて真剣に尋ねられるものですから、根拠を挙げて、今はっきりする幸せであることを徹底して話すと、涙を流されて聞かれるのです。

話が終わった後に、先ほどご紹介したご自分の今までの人生をお話しされたのです。

「この世は苦しいけれども試練だから、と自分に言い聞かせてきました。でも本当に死んだら天国なんだろうかと不安になってきて。。」

とずっと苦しんでこられたのです。

生きている時にはっきりする、死んでみなければわからないものではない、という仏教の教えに深い感銘を受けられ、話を続けて聞かれるようになりました。

忘れられないアメリカでの出会いの1つです。

浄土真宗、親鸞聖人の教えは、決して

「死んだら極楽浄土へ往けるからこの世は苦しくても、あきらめていきなさい」

という教えではありません。

この世から、絶対捨てられない「摂取不捨の幸福」に生かされ、「人間に生まれてよかった!」と生命の大歓喜を味わうことができる教えなのです。

 

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