仏教Q&A 14回目


【いつ死んでも悔いなしといえる幸福なんてあるの?】

 

こんにちは。
「OBA」のまさみです。

 

前回、『摂取不捨の利益』とは生きている時、ガチッと一念で摂め取られ何があっても捨てられない幸福、崩れない幸せであることをお話ししました。

この「何があっても」の中には「死ぬときも」というのも入ります。

以前、講座に来られた学生で「どうせ死んだら終わりじゃん」と投げやりに私に食ってかかってきた大学生がいましたが、なかなかよく考えています。

「どうせ死んだら」の言葉を前に対抗しうる人生論、幸福論は、なかなか見当たらないからです。

どんなに上手く世の中を渡り、人より多くの富や名声、家族などの幸せをつかんだとしても、どんな人も死を免れることはできません。

死ぬときには、今まで人と争ってまで手に入れてきたすべてのものを置いて、一人ぼっちで死んでいかねばならないのです。

いよいよ死んでいく時の実相を蓮如上人(れんにょしょうにん)は、こう説かれてます。

「まことに死せんときは、かねてたのみおきつる妻子も財宝も、わが身には一つも相添うことあるべからず。されば死出の山路(しでのやまじ)の末、三途の大河(さんずのたいが)をば、ただ一人こそ行きなんずれ」(蓮如上人)

 

●死んでいくときは、一人ぼっち

温泉旅館に泊まりますと、きれいな掛け軸やインテリア、風光明媚な庭や清潔な布団などがあって気持ちいいですが、どんなに「これいいな」と思ってもその日1日だけしか自分が自由にはできないものです。

旅館を出るときに「気に入ったから」といって部屋から持っていったら、窃盗罪で逮捕されます。

その日1日だけの、しばらくの所有物です。

考えてみれば、私たちが手にしている財産も地位も名誉もこの世にいる間だけ、しばらく自分のものになっているもの。

死んでいくときには全部置いて、丸裸でこの世を去らなければなりません。

一人ぼっちでどこへ行くんでしょうか。

人と駆け抜け争い、手に入れて、「おれのものだ」と誇っていてもしばらくの間。

夢幻のように消えていく、はかない一生の間だけのことです。

大金を手中にしたとっても、権勢をほしいままにしたといっても、歴史絵巻をクルクルと早送りボタンを押してみれば、温泉旅館の客の出入りさながらです。

朝、客が部屋を出ていけば、昼過ぎにやってくる次の客が使う部屋となる。

その客も翌朝には出て行ってまた次の客の入ってくる準備が始まる。

どんな権力者とて、一夜の温泉宿の一介の客にすぎません。

死んでどこへ旅立つのかも知らず。。

それなのに私たちはなぜ生きているのでしょうか。

【必ず死ぬのになぜ生きる】

これこそお釈迦さまが出家された動機であり、親鸞聖人が仏門に入られた目的でもあります。

 

●お釈迦さまが問いかけた3つの願い

こればかりはどうしようもない、考えないようにするしかない、考えてしまうと、むなしくて不安になるだけだから、という人があります。

答えがないならそうするしかないのですが、その不安の解決の道は2600年前、お釈迦さまによって明らかにされているのです。

その昔、なんとかシッダルタ太子(のちのお釈迦さま)の出家をやめさせたい一心から「お前の望みは何でもかなえてやるから」と提案する父・浄飯王(じょうぼんおう)へのシッダルタの3つの願いは

「老いない身にしてください。

病で苦しまない身にしてください。

死なない身にしてください」

というものでした。

その3つの願いを聞かれた浄飯王は「無茶なことをいうものではない」とあきれ返ったとあります。

こればかりはどうしようもない、どうせ死ぬんだから、考えたって仕方ない、と死をごまかし続ける人類は、死を克服したいと挑戦する者に、むちゃだ、とあきれるだけなのです。

「死」が怖いと敏感に感じ、「死」こそ大問題ではないかと直感的に気づく、純粋な少年や少女も

「そんなこと考えても仕方ない」

「それよりも将来のために勉強しなさい」

と大人の物わかりのいい意見にいつしか、飲み込まれてしまいます。

その中、ただお一人、敢然と死に立ち向かい、ついに死を超えた幸福の厳存を万人に示されたのが、ブッダ、お釈迦さまその人です。

だから仏教で説かれている「本当の幸せ」とは、

いつ死んでも人生に一点の後悔なし、生きてきてよかった、と死の巌頭に立ってなお大満足の境地です。

それが「摂取不捨の利益」なのです。

 

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