仏教Q&A 15回目


【苦海を渡す大船に乗ったら、人生はどう変わるのか?】

 

こんにちは。
「OBA」のまさみです。

 

浄土真宗の中興・蓮如上人は、難度の海を度す大船に乗られた幸せな境地を

 

「うれしさを昔は袖に包みけり今宵は身にも余りぬるかな」

と詠まれています。

「うれしいことがあると昔は袖に包んでいた、今夜からは身にあふれている」

と言われています。

“昔”とは難度海におぼれていた、在りし日のこと。

“今宵”とは船に乗った今の心境。

難度海の人生でつかんだ幸福は袖に包むようなものだった、とのことですが、袖に包む、とは和服の話であって今で言うなら背広の胸ポケットでしょうか。

財布とか、手帳とか、大事なものを入れておくところです。

忘れてはならない、盗まれてはならない、落としてはならないから、「袖に包む」のです。

言い換えれば、大船に乗る前、本当の幸福になる前はうれしいことがあるとそれを落とさないよう、盗まれないよう、戦々恐々としていた、ということです。

いつ相手が心変わりして見捨てられるか、いつどんな病気にかかるか、ひっくり返ってしまう丸太にすがっている不安を『袖に包む』と言われています。

それが『今宵は身にもあまりぬるかな』今夜からは身にあふれている。

心のコップに幸せの水が満たされている、というのでない。

心のコップを幸せの大海に放り投げてもう乾く心配も、こぼす心配もなくなった、完全に幸せに満たされた境地を「身にもあまりぬる」と言われているのです。

 

●「変わり果てたる、わが心かな」

親鸞聖人のお弟子の一人である弁円は仏教を聞きぬいて、幸福一杯の身に生かされた境地を

「山も山 道も昔に変わらねど 変わり果てたる わが心かな」

と詠んでいます。

山道を歩いていると、何のために生きているのかわからず、むなしかった、あの時と少しも山の姿は変わらない、何か辛いことがあると人をうらんで苦しんでいた、あの時と道も少しも変わらない、しかし、今は心が大変わりしてしまった。

どうしてこんな幸せに生かされたのか、不思議な幸せに感謝せずにいられない、という心境をうたっています。

仏教では

【最も不幸な人は感謝の心のない人である】

と言われます。

お金がない人が不幸なのではない、病気の人が不幸なのでもない、感謝の心を知らないのが不幸な人である、と仏教は説きます。

フランス革命の悲劇の王妃、マリーアントワネットはパンをよこせとヴェルサイユに押しかけた民衆に

「パンがなければケーキを食べればいいじゃない。」

と言ったエピソードもあるように贅のきわみを尽くした人でしたが不能の夫や慣れない異国での孤独常に監視されてる日常から周囲の不平とうらみをまきちらし、常に不機嫌だったようです。

きれいな服で美味しい料理を口にしても満たされない気持ちに苦しんだ、不幸な人だったのではないでしょうか。

やがてはフランス革命で飢えに苦しむフランスの民衆の反感のシンボルになり、ギロチンで公開処刑されることとなります。

現代に生きる私たちは、飢餓で苦しむことなく、寒さに凍えることもなく、娯楽も便利さも人類の歴史上、最高に恵まれていますが、やはり往時のマリー・アントワネット同様、「生まれてきてよかった」との感謝の心もなく生きるのは当たり前になっていて時に苦しいことがあると「死んだほうがましだ」とさえ思います。

苦しみの海で、不平不満の中にあります。

それが仏教の大きな船に乗せられ、摂取不捨の幸福(本当の幸せ)に生かされると180度心が変わり、「人間に生まれてよかった」「あの時、死ななくてよかった」と、感謝と喜びがあふれます。

そして自分をここまで育んできてくれた一切に感謝せずにおれなくなります。

親鸞聖人は、

「限りない喜びは、返しきれない報恩となって親鸞を泣かす」

と喜びを綴られてます。

●飲水思源

「飲水思源」という中国のことわざがあります。

「水を飲む時には、井戸を掘った人のことを思え」

という意味です。

家の蛇口をひねれば水が出てくるのは、こんこんと湧き出る泉があるから。

いやいや泉があっても、我が家までその水を新鮮なままで通すパイプがなければ、やはり水は飲めない。

のどの乾きに苦しんだ人が、一杯の水で潤い、歓喜胸に満つるとき、同時に、井戸を掘った人の苦労、パイプを通した人の苦労がしのばれ、深い感謝に包まれるのです。

あなたの今があるのはどなたのおかげでしょう。

何人かのお顔が浮かんでくることと思います。

その中にはもう亡くなられた方もあるし、ご健在の方もありましょう。

それらの方が自分を生んで下さった、育んで下さった、自殺を止めてくれた、病気を治してくれた、事故から救ってくれた、そのおかげで今『本当の幸せ』になれた、ということがあるのです。

難度海で経験したあのつらい経験もすべてはこの船の存在を知らせるためだった、と感謝に変わります。

一切の苦労は報われ、流した涙の一滴一滴が真珠の玉となってその手に戻る時があるのです。

 

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