しあわせの鏡 2回目


(前回まで)

家族への不満をぶつけるりん子に、ましろ先生は「鏡が必要」と言った。
先生のいう「鏡」とは何か。

ここからは、ましろ先生の話を要約してお伝えします。

心を反転すれば苦しみは半減する

「私の大切なもの」といえば、真っ先に家族を挙げる人が多いでしょう。

大人も子供も、家に帰ってホッとしたい。

家族で囲む食卓は、幸せがぎゅーっと詰まったひとときのはず。

でも現実は、絵にかいたような、とばかりはいきません。

くたくたに疲れて仕事から帰れば

「遅いわねぇ!少しは家のことも手伝ってよ」

と責められる夫。

家事と育児でへとへとなのに

「また散らかしているのか」

となじられる妻。

嫁と姑に至っては

「あいさつが悪い」

「礼を言わない」

「少しも大事にしてくれん」。


千年前の書物にも記されるほど長い
バトル(戦い)の歴史があります。

そして板挟みの夫は、「この世のジゴクだ」と嘆く……。

一つ屋根の下に暮らしながら、いがみ合い、傷つけ合い、涙に暮れているのはなぜでしょう。

 

どうすれば問題が解決するのでしょうか。

その心がけのポイントを、

「オレがオレがの”が”を捨てておかげおかげの”げ”で暮らせ」

と、古人は教えました。


「私がこんなに苦しんでいるのに、
少しも案じてくれない。薄情な人だ」

「オレがこれだけ親切しているのに」

「私がこれほど尽くしているのに」

怒り、苦しみ、ケンカのもとは、

“オレがこれだけやっている”

のうぬぼれ心にあると仏教では教えます。

 

自分がいちばん苦労していると、各自思っています。

ホントは、いちばんのんびりしているのが私。

みんなはギリギリ一杯努力している、と反省する心の余裕がない。

それでは

“おかげさまで”

と感謝できず、

“ありがとう”

の一言が出ません。

そんな時、

「世話しているのではなく、世話になっているのだ」

「堪忍しているのではなく、堪忍してもらっているのだ」

と、心を反転すればどうでしょう。
苦しみは半減するに違いありません。

「悪いのはあいつだ」
と相手をうらみ、のろっている時は、自分の姿を忘れているものです。

「では、自分はどれだけ相手の幸せを念じ、尽くしているだろうか。
 もっとお粗末なのが私なのでは」

と自己を省みれば、うらみのろいも消え、懺悔と感謝の心が生まれるでしょう。

 

幸せのカギは「自分を知る」こと。

だけどそれが難しい

しかし、その「自分を知る」ことが、実は大変です。

私たちは、

「自分のことは自分が一番知っている」

と思いがちですが、昔から

「汝自身を知れ」

と言われるように、じつは知っているつもりで、サッパリ分からないのが私なのです。

 「世界で最大のことは、自己を知ることである」

と、モンテーニュも言っています。


なぜ、自分というものは、
それほど分からないのか。


それは、あまりにも近すぎるからです。

私たちの目は外に向いていますから、外のものはよく見える。

例えば他人の欠点なら、

「あの人はすぐ腹立てる。わがままで、おっちょこちょい、それから……」

と3つ4つ、すぐにでも挙げることができます。

ところが自分の欠点を挙げてみよ、といわれるとハテナ?と首をかしげる。

「オレは普通だし。もちろん完璧じゃないけれど、これといった欠点はないだろう」

と思っています。

なくて七癖、欠点のない人間などいるはずないのですが、自分のことはもう見えません。


あるおばあさん、隣の家の障子に
大きな穴が開いているのを見て

「隣の嫁はなまくらだなあ。

 あんな大きな障子の穴、開けたままにしておって」。

それを見ていた孫が

「おばあちゃん、どこから見て言ってるの?」。

 問われて、おばあさん驚いた。

自分の家のもっと大きな障子の穴からのぞいていたという。


「目、目を見ることあたわず、
刀、刀を切ることあたわず」


どんな視力のいい人も、
自分の目を見ることはできない。

切れ味鋭い正宗の銘刀も、刀身自体を切ることはできません。


近すぎるからです。


どうすれば、その「近すぎる自分」を
知ることができるでしょうか。


近すぎるわが目や顔を見るために、
使われるのが「鏡」です。

「自分」を知ろうとするときには、「鏡」の世話になるしかありません。

さて、あなたは”自分を知る”どんな鏡が思い浮かぶでしょうか。

 

(つづく)

 

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