しあわせの鏡 3回目


(前回まで)

 幸せになるカギは、自分を知ること。

 しかし、近すぎて分からない自分を知るには鏡が必要だとましろ先生は語ります。その鏡とは―?

 

  • 気になるわりに当てにならない―他人鏡

まず思い浮かぶのは、「他人」という鏡でしょう。

他人の目に自分はどう映っているか。

他人の評価した自分ということです。

私たちは、この鏡を大変重視し、信頼を置いています。

だから「他人に笑われるようなことをしたらダメ」

「後ろ指さされるような人間になるなよ」

と教育されてきました。


つまり、他人という鏡に、
よく映る人になりなさい、ということです。


しかし他人という鏡は都合によって
コロコロ評価が変わります。

「今日ほめて 明日悪くいう 人の口

 泣くも笑うも ウソの世の中」(一休)

今日はベタ褒めでも、明日はボロクソに言うのが人の口(他人鏡)。


だから、
他人の評価など当てにならない。

褒められて有頂天になるのも、悪く言われて泣いているのも、そらごとだ。

褒められたからといって、その人が善人とは言えないし、悪く言われているから悪人とも決まらない。

その時々で変わるのが人の評価であると、一休さんも指摘しています。


心というのは盆の上の卵のように
コロコロ変わるから、ロの字を一つ取って「ココロ」といわれるようになったとか。

そんなコロコロ変わる、他人の心で評価した自分が、本当の私を映しているといえないことは明らかでしょう。


兼好法師の『徒然草』にも、
こんなアドバイスがあります。

「悪口を言われても、どうせ皆すぐに死んでいくのだから、気にするな」

もちろん他人からどう思われようが、構う必要はない、聞く耳を持つな、ということではありません。

ただ他人鏡は本当の私を映す鏡ではないということは、ぜひ、覚えておきたいことです。

  • いちばんかわいいのが私――自分鏡


次の鏡は「自分鏡」です。

これは自己の道徳的良心によって反省した自分のこと。

果たしてこの鏡は、本当の私を映すことができるでしょうか。

一昔前、テレビで「反省!」のポーズをとるサルが人気を呼びましたが、反省といっても、いろいろです。


企業の不祥事が起こるたびに、
トップが「おわび会見」をしています。

たとえその時は涙を流して謝っていても、腹底はどうか。

「何でオレが謝らないといけないんだ」

と、後で社員にこぼしていた重役の話を聞いたことがあります。


お粗末至極な話ですが、
同じ立場に立たされれば、そんな心しか出てこないのが、私たちではないでしょうか。


それは「欲目」が邪魔をするから
です。

皆、自分自身にほれていますから、少しでも自分をよく見ようとする「欲目」の色メガネから、離れることができません。

その欲目が子供に向けば、「親バカ」とサジを投げられます。


もちろん子供を信じて守ろうとする
気持ちは大切ですが、たとえ警察に捕まっても、

「うちの子はそんな悪い子じゃない」

としか思えない。

 

わが子に対してさえ、そうですから、自分自身に対しては、なおさらです。

最近、白髪が増えてきた。

「でも、隣のあの人は、私より若いのに、もっと白髪が多いわい」

と、隣人を引っ張り出してこないと落ち着かない。

隣でだめなら、三軒向こうから。

果ては隣町からでも引っ張り出して安心しようとする。

自分のことは、うぬぼれ心で、もう悪く見られないのです。

「私は顔の色は黒いけど鼻が高いから」

「色も黒いし鼻も低いが口が小さいから」

「口は大きいけれども色白だ」

しまいには「何にもできん者だけれど、〝素直な奴〟と、みんなから言われているから」と、自分のことはすべて美化してしまうのです。

そんな自分鏡もまた「本当の私を映す鏡」にはなりえないでしょう。

では「他人鏡」や「自分鏡」のほかに私の真実を映す鏡はあるのでしょうか。


それが「法鏡(ほうきょう)」です。

(つづく)

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