しあわせの鏡 4回目


(前回まで)

ましろ先生は、りん子に自己を映す3枚の鏡を伝える。

「他人鏡」「自分鏡」に続き、第3の法鏡=とはいかなるものか――。

 

  • 仏の眼に映った本当の私――法鏡


「法」とはインドの言葉でダルマーと
いい、「真実」ということ。

法鏡とは「真実の自己を映す鏡」ということで、イコール仏教のことです。

お釈迦さまが、35歳で仏のさとりを開かれてから、80歳でお亡くなりになるまで45年間、説かれた教えが仏教ですが、その教えを一言で表されたのが、

「仏教は法鏡である」

というお言葉です。


「仏教を聞く」というと何か別世界の
おとぎ話を聞くようなイメージを持つ人があるかもしれませんが、じつは、まったく違います。

 

「仏教を聞く」ということは、「人間を聞く」ことであり、「本当の自分を聞く」ことに、ほかなりません。

 

では仏教という鏡に映る「私」とはどんなものでしょうか。

 

  • 心と口と体~最も重視すべきは?

 

仏教では、「私」というものを、心と口と体の3方面から見られます。

中でも最も重く見るのが「心」です。


「他人鏡」や「自分鏡」が問題に
するのは、口や体の行いがほとんど。

口や体の言動を見て、善い・悪いと評価しています。


それに対して、仏教という鏡では、

「心で思っていること」を最も重視するのです。


なぜかといえば、口や体の行いは、
心の指示によるからです。


例えるなら、心は「火の元」であり、
体や口の行為は「火の粉」といえるでしょう。

火の粉は火の元から舞い上がるように、体や口の行いの発生源は心にあります。

消火も火元に主力がおかれるように、仏教は常に心の動きに視点がおかれるのです。

では私の心は、どんな姿をしていると仏教は教えるのでしょうか。


すなわち法鏡に映る本当の「私」とは?

有名な『歎異抄(たんにしょう)』には、

「煩悩具足(ぼんのうぐそく)の 凡夫(ぼんぶ)」

と、それを教えられています。

煩悩とは、欲や怒り、ねたみ、そねみなど、私たちを煩わせ、悩ませ、悪をつくらせるもの。
具足とは「100%、それでできている」

ということであり、「かたまり」ということです。

「凡夫」とは「人間」のことですから、「煩悩具足の凡夫」とは、「欲や怒り、ねたみ、そねみの煩悩のかたまりが人間」

ということであり、

「煩悩100%で、悪しかつくれないのが人間」

ということです。

“そんなバカな!”と、誰もが耳を疑い、とても認められないでしょうが、これが、仏の眼からごらんになった私の姿なのです。

 

次は鎌倉時代の親鸞(しんらん)という人の本当の自分を知られた告白です。

「悪性(あくしょう)さらにやめがたし
 こころは蛇蝎(じゃかつ)のごとくなり
 修善も雑毒(ぞうどく)なるゆえに
 虚仮の行(こけのぎょう)とぞなづけたる」

(なんとしたことか。ヘビやサソリのような心は、少しもやまない。

 こんな心に汚染されている行だから、雑毒(ぞうどく)の善といわれて当然だ)


ここで 「毒の雑じった善」と言われる
のは、どんなことでしょうか。

 

例えば、わずかなクッキーを職場のみんなにプレゼントしても、「ありがとう」の一言がなかったらおもしろくない。

「持っていかねばよかった」

とさえ思えてくる。

「あァ、このクッキー、いまいちでしょう?」

と、見え見えのお礼の催促をする。

このような「見返りを期待する心」、「恩着せ心」が「毒」であり、善いことに努めても、相手がうっかり、褒めもせず、感謝もしないと途端に腹が立つ。

心の中で相手を切り刻み、苦しんでいるは、まさにこの「毒」にあたった姿です。


****

ここまで話して、ましろ先生はちょっと一方的に話しすぎたというように、ふーっと息を吐き、ベンチにもたれかかった。

 

  • 心が反転すれば、幸せはすぐそこに

 

〝毒の雑じった善? ふーん……

 えっ、それって私のこと?〟


それまで外ばかりに向いていたりん子の目が自己の内側をのぞいた。

そういえば相手ばかり責めていたが、私はできているのだろうか。

周りの人のために、どれだけ心を砕いてきただろう。

自分自身に向き合って振り返れば、いつも自己中心的で、やってもらって当然と思い込み、「ありがとう」の気持ちも言葉も、自分こそ持ち合わせてはいなかった。

あの時も……。

すると、今までの話は全部、私のことだったのか?

りん子は、ましろ先生との対話を、反芻してみた。

“確かに、言われてみれば……”

体がカーッと熱くなる。

そんなりん子の様子に気づいてか、先生は、にこやかに言った。

「いやなに、全部、わしのことだ」

そして真顔に戻って、つけ足した。

「ただ、本当の自分を映す鏡が仏教だよ。

 そして心が反転すれば幸せはそこにある。

 いろいろな意味で、な」

 

りん子は黙ってうなずいた。

「お互い考え方も性格も違う者同士、仲良くやっていくのは、容易なことではない。

 でも、どうしてこの人と縁があったのかと考えてみることも大切だ。

 この世で親子、兄弟、夫婦となるのは、過去世からよほど深い因縁があってのことだと仏教では教えられるからね」

 

「深い因縁……」

 

「そうだよ。そして、それも、しばらーくのご縁だ」

 

それから、ましろ先生は、10年前に奥さんを亡くしたこと、2人でよくこの公園を訪れたこと、

今は仏教の教えに出遇って、生きる力を得たことなどを話してくれた。

じっと耳を傾けていたりん子は、「私も仏教を聞いてみたいな。

“しんらんしょうにん”ってどんな方か、今度また、教えてくださいね、先生」


そう言って軽く頭を下げると、
買い物袋を持ち直し、足早に歩き始めた。

「いつでもおいで」

朗らかな声が背中を追いかけて、春風の中に消えた。

 

「しあわせの鏡」編(まとめ)

○この世で最も不幸な人は、感謝の心のない人

○おれがおれがの「が」を捨てて、おかげおかげの「げ」で暮らせ

○幸せのカギは「自分」を知ること

○近すぎて分からない自分を知るには「鏡」が必要

○法鏡に映る「煩悩具足(悪人)」の自分を知り、心が反転すれば、幸せはすぐそこにある

(次回から「しあわせの道しるべ」編をお送りします)

 

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