ブッダが教えられた第3の自信のつけ方とは、私の「生きる意味」を知ることです。

生きる意味を感じられず、様々な悩みを抱えている人が増えてきています。
自分は存在してもいいのだろうか、こういう不安を感じる人は少なくありません。

みんなの様に、得意なこと、長所がなくて、自分はどんくさくて、いるだけで迷惑をかけるのではないかという悩みを抱える人。
職場でも、なかなか成績が振るわず、ミスばかりをしている事に落ち込む人。
SNSを開いて、楽しそうな写真を見て、自分との違いに寂しさを感じる人。
自分の居場所と心休まれる場所を求める人。

あげればキリがありません。

この様な心理的な安心を手に入れられないと、色々な弊害が起きてきます。不安を抱えていると、私達は、ついつい悪く物事を捉えてしまいます。

自分に対する親切や優しさであっても、何か裏があるのではないかと、勘ぐります。
感情的になりやすく、すぐに腹を立てたり、取り乱してしまいやすくもなります。
また、自分なんてダメだという思いが強いと、行動ができなくなります。
行動ができないと、余計にダメな自分という思いを強めて、悪循環が始まってしまいます。
他にも、人に対して、暴力を振るったり、暴言を吐くような行動に出ることもあります。

子どもが、好きな子に対して、ちょっかいを出す心理と似ています。
自分を見てもらいたい、振り向いてもらいたくて、その様なことをします。
非行に走るのも、叱られるという形でもいいから、自分を見てもらいたいという思いからだとも言われます。

この様に、生きる意味が分からず、自分の存在価値を感じられない為に、様々なことが起こします。

生きた証を残すことが、生きる意味だと思われる方もありますが、どうか検証していきたいと思います。

生きた証を残すことは、努力の賜物であり、素晴らしいことです。
誰しも簡単には成し遂げられることではありません。

それを踏まえた上で、誰しもが知っている様な偉大な生きた証を残した人の声を聞いてみたいと思います。

生前から多くの称賛と富を受けたパブロ・ピカソは、自分の絵に自信が持てなくなりました。

『すべて終わった。絵はわれわれが信じていたようなものではなかった。それどころか正反対だった。(中略)誰にも何の役にも立たないではないか。絵、展覧会ーそれがいったい何になる?(ピカソ)』

と、虚しさに突然襲われます。

この様にして突然、生きた証が力を失うのですが、それはどんな時なのか、それは、人生の幕締めの時でしょう。

ロシアの文豪トルストイ

『きょうあすにも病気か死が愛する人たちや私の上に訪れれば(中略)わたしの仕事などは、たとえどんなものであろうとすべては早晩忘れ去られてしまうだろうし、わたしもなくなってしまうのだ。(懺悔)』

とも書き残しています。

日本人ならば誰でも知っている松尾芭蕉
その松尾芭蕉、最後の俳句とも言われているものが、

「旅に病で 夢は枯野を かけ廻る」

です。
最後にかけ廻った気持ちは、どんなものだったのか、最後を立ち会った弟子の『笈日記(おいにっき)』には、芭蕉は、花鳥風月に心をかけるのは、迷いであったと知らされ、「あれだけ打ち込んできた俳諧を忘れようとしか思わないとは・・・」と後悔を述べていたそうです。

『此後はただ生前の俳諧をわすれんとのみおもうはと、かえすがえすくやみ申されし也(松尾芭蕉)』

どんな輝かしい功績を残しても、人生の終点を忘れている間、楽しめるものであって、それで心からの安心を手に入れることはできません。

例えるならば、自分を着飾る装飾を増やした様なものです。

周りから見れば、素晴らしい、素敵だと思われても、それはあくまでも装飾です。私そのものは何ら変化はありません。

ですから、真の安心を得ることができませんので、ブッダは、これらの様なものを生きる意味とは教えられませんでした。
ブッダはどの様に教えられているのか、明日、続けていきたいと思います。

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